考えるつゆくさ

毒親の問題などについての考えをつづります。また、乳がん治療の記録も綴っています。

貰えなかった母親の愛を今も求めている

母親から愛を貰えなかったことが40代になっても未だに哀しい。多くの人が母親から貰った愛を心の土台にして、強く明るく生きている。一方、愛を貰えなかった人の心には、その土台がない。だからいつも心は不安定で弱い。

 

母親からの愛は、その人が生きていく上での自信になり、自己肯定になり、力になり、安心感となる。母親からの愛がないと、自信がなく、自己をいつも否定し、無気力で、不安に苛まれてばかりいる人生になる。私の中の本当の私は、毎日、いつでも、うずくまって泣いているし、怖がって震えているし、何もかもが嫌で耳を塞いでいる。

 

でも、表面の私はそうは見せないために必死になっている。自信、自己肯定、力や安心感が、人並みにあるように見せるために、毎日、いつでも、忙しない。火を絶やさないよう風を送り続けるふいごのよう。普通の人のように見える人生が送りたい。泣いたり震えたり耳を塞いでいる姿なんて誰にも見せたくない。

 

でも、正直に言えば、もう風を送り続けることに疲れてしまった。普通の人のふりをして生きることに疲れた。疲れて、死んでしまいたいとよく思う。

 

何でもない様子だったのに急に自殺してしまう人の中には、きっとふいごで風を送り続けることに疲れてしまった人たちもいるのではないかなと思う。

 

母親から愛を貰えていれば・・・私は貰えなかったそれをまだ求めている。今さら貰えるはずもないのに、愛をくれる人ではなかったのに。

 

「愛が欲しいよ、お母さんの愛が欲しいよ」。私の中にいる小さな子供の私が哀しく泣いている。

 

エリート家庭の私の家はごみ屋敷だった

私の家はごみ屋敷だった。有名大学に勤めるエリートの父親で、家は閑静な住宅街にあり、娘は私立の中高に通っていると言えば、一見いい家のように見える。

しかし、実際のところは家の中では、母親は家事や育児を放棄し朝から晩までテレビの前に寝っ転がって菓子を食いながらテレビを観たり寝たりしており、父親は書斎に引きこもって家族のことなど気にもかけず、兄弟も自室に引きこもって布団をかぶって寝ており、掃除機を何週間もかけられていない家の中はほこりにまみれ、風呂場は黒かびだらけで浴槽には垢がこびりつき、洗面所は汚れた洗濯物の山になり、リビングにもたたまれていない洗濯物が積まれており、台所はコンロもグリルも換気扇も油でどろどろに汚れ、流しには汚れた食器が溜め込まれて汚水が貯まり、冷蔵庫の中はかびの生えた食品や何本も開封されている同じ調味料、トレイからこぼれだした肉片や腐って液体と化した野菜などであふれ返っていた。

誰も家庭をまわそうとする意識がなく、誰かがこれらを処理せねばならないので、結局私がせざるをえなかった。遠い私立校に通い、満員電車に詰め込まれて疲れた体で帰ってくると、母はあいかわらずテレビの前で寝っ転がってテレビを観ていた。食事を作ってほしいと言うと、「あー、めんどくさいなー!なんであたしが作んなきゃいけないのよ!」と怒鳴ってイライラし出した。私は流しに溜め込まれた食器を洗い、冷蔵庫の中の腐ったものを処分し、腐っていないものを探して調理をし、食事をし、また食器を洗い、風呂場の浴槽を掃除し、洗濯物をたたみ、やっと寝れるのは毎日夜中の3時や4時だった。朝起きて制服のブラウスを着ようとすると、洗濯されずに洗濯物の山の中にあったので、そこから引っ張り出して手洗いをして脱水だけかけて濡れたまま登校したこともよくあることだった。

私は毎日疲れていた。学校の授業中に眠ってばかりいたので、先生によく注意されたが、生きていくにはそうするほかなかった。先生たちは眠ってばかりいるこの生徒の身にそんなことが起こっているなんてこれっぽっちも知らなかっただろう。

子供をサポートしない、サポートするつもりが微塵もない親に育てられた子供の自己肯定感が低いのも無理はない。サポートしないというのは、子供を生かせるつもりがないということだ。私は当時よく「生きる意味がわからない」と友人たちに言っていた。生きる意味を見失い、大人になるにつれて心を病んでいき、ついには鬱病になって倒れたのは当然のなりゆきだろう。

ヤングケアラーという言葉を最近よく耳にするが、私がしていたことは同じように思う。親としての自覚や責任のない頭のいかれた親の世話をしてきたのだ。私はなぜあの頃、家族のぶんの食事まで作り、家族のぶんの洗濯物までたたんでいたのだろう。私がやらなきゃ、と思っていたのはなぜだろう。今思い返すととても悔しい。

娘の容姿を罵倒し、嘲笑する母親

娘を罵倒し、嘲笑するのが、母にとって日々の喜びだったのだろうと思う。子供だった私の一挙手一投足のみならず、容姿までも罵倒され、嘲笑されてきた。だから私は幼いころから「自分はひどく醜い人間なんだ」と思い込まされていた。

容姿について、母から以下のような罵倒・嘲笑をされてきた。

「あんた、目が大きすぎて、おばけみたいで気持ち悪い」
「手足が長すぎて、骸骨みたいで気持ち悪い」
「体が細すぎて、まるで餓鬼だね」
「顔が細すぎて、首も細すぎて、病人と同じ」
「出っ歯で、河童みたい」
「鼻が低くて、笑われる」
「くまがあって、おかしい」
「髪を結ぶと、ひっつめした女中みたい」
「陰気くさい顔で、どんどんブスになる」

そして娘の鼻に洗濯ばさみを挟んで嘲笑ったり、鼻の下を指で押して「(出っ歯が)引っ込め、引っ込め」と馬鹿にしながら歌ったりしていた。スイミングスクールで水着を着ていた私を見て、「体が細くて、顔色が悪くて、ガタガタ震えていて、幽霊みたいでおかしかった」とにやつきながら嫌味たらしく言った(私には水泳が体質に合っていなかったと思う)。

小学生の時は、自分の容姿について思うと、とてもみじめな気持ちになった。「どうして他の友人たちのように普通に生まれなかったんだろう」と絶望していた。「生まれ変わったら、せめてまともな姿でありたい」と願っていた。恥ずかしくて、悲しくて、消えてしまいたい思いによく駆られた。

ところが、高学年や中高生になると、友人たちが容姿を褒めてくれるようになった。欠点だと思っていた大きな目や細い体を「いいな」と言われたり、低いと母から嘲笑されていた鼻を「高くてうらやましい」と言われたりした。私はとても混乱した。

ただ、褒めてもらえてうれしい気持ちもあった。しかし幼いころからの母親による「あんたは醜い」という刷り込みのほうが強力だった。私は「自分の容姿は醜い」という思いに常に苛まれ、中高生の頃は、人前に出ると赤面症や多汗症の症状が出た。道を歩くのもストレスだった。人々が往来する道をこんな醜い人間が通ることが申し訳なく、いたたまれなかった。電車の中でも「醜い私をまわりの人たちは嫌がっているのではないか」と思っていた。

さらに大学生になると摂食障害にもなった。ただでさえ醜い容姿なのに、顔にニキビまでできたらさらに醜くなってしまうという思いから油や砂糖を抜く食生活にしたら、体重が30㎏台になり生理も止まった。拒食症の後は過食症にもなり、のどの奥に指を突っ込んで吐くことを繰り返していた。摂食障害は母娘関係に難があり、且つ問題にしっかり取り組もうとする真面目なタイプの娘がなると、後にカウンセラーさんから聞いた。

二十歳のころ、「自分は本当に醜いのだろうか」と思い、若い女性たちを容姿で審査するオーディションを受けたら合格した。人前に出るその仕事を通して、容姿を他者から褒められる機会は多くなり、少し自信が持てるようにもなった。

今、40代になり、自分の容姿が他の人たちと比べて特別に醜いわけではないと思えるようにはなった。しかし鏡を見た時に、母の罵倒や嘲笑の声がふいによみがえる時もあり、自分がまた醜く見え、消えてしまいたい衝動に駆られる時がまだある。

母親がなぜ幼い娘の容姿を罵倒、嘲笑し、自信を失わせるようなことばかりをするのかを、まともな人なら理解できないだろう。私から見れば、やはり彼女はそれらをすることが日々の喜びだったんだろうと感じる。趣味の悪い、つまらない人生だ。また、痩せている娘を貶めることで、ぶくぶくと豚のように太って顔も体も丸く醜い自分を擁護し、正当化していたのかもしれない。怠惰で姑息な、本当にどうしようもない生き物である。

贈りたいと思える母親がいない それは子供のせいではない

雑貨屋に入るともう母の日のコーナーが設えられていて、カーネーションが描かれた綺麗なハンカチが飾られていた。薔薇や紫陽花が描かれているものもあった。パステルカラーのピンクや紫の美しい扇子も置いてあった。

 

こんなに綺麗で美しい品々を、買って贈りたいという気持ちになった。でも私には買って贈りたいと思えるような母親がいないと思うと、哀しくなって涙が出た。

 

贈りたいと思える母親がいたなら、どれだけ幸せなことだろう。「あら、いいわね」と喜んでくれて、その顔を見てこちらも嬉しくなれたなら、どれだけ幸せなことなんだろう。

 

私だって、本当は、母の日に贈り物をする娘になりたかった。

 

いわゆる“いい子”だった私は、子供の頃から、鬱病で倒れる30代半ばまで、事あるごとにせっせと母親に贈り物をしてきた。

 

しかし彼女の口から放たれるのは「あんたは何もしてくれない!」「あたしは子供に恵まれなかった!」「あんたは親不孝だ!」「あたしは不幸だ!」という言葉だった。

 

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雑貨店のそのコーナーに飾られていたハンカチがあまりに綺麗だったので、私は思わず手に取った。そこには「ありがとう」というメッセージカードが添えられていた。

 

贈りたいと思える母親はいないが、母親のように思える人たちに贈るのはどうだろう。何かと気にかけてくれる年上の女性、誠実であることを見せてくれる同業の先輩、学生の頃から常識を教えてくれる友人たちに・・・。でも「あまりにも重いかな・・・」と私はハンカチを元のかごに戻した。そしてまた、哀しくなった。

 

母の日に母親に贈り物をしたいと思える人は幸せだ。それはその人が決していい娘や息子だからではない。贈り物をしたいと思わせてくれる母親が、いいのだ。そして母親に贈り物をしたいと思えない人は、決してその人が悪いわけではない。

教育虐待 中学受験で私は死んだ2

毎晩深夜2時まで怒鳴られたり叩かれたりしながら勉強させられる日々は、まだ10歳や11歳だった私の心身を次々と蝕んだ。

 

小学校の登校時間は8時25分なのに、私は8時15分になっても起きることができなかった。肩と背中が凝り固まって重く、立つと目の前がちかちかとして立ち眩みが起きた。今思えば、これは自律神経の乱れによる「起立性調節障害」と呼ばれるものだろう。だから私は遅刻をよくしていた。朝礼で校庭に全校生徒が集まる中、校長先生が朝礼台で話をしている後ろをぼーっとした表情で横切って下駄箱に向かう私のことをクラスメイトがおぼえていて、十数年後に話して聞かせれくれた。そう言えばそうだったかもしれないと、私は哀しくなった。

 

私の自慢は両目の視力がとても良いことだった。「よくあんな遠くのもの見えるね」「目が大きいから視力がいいのかな」と友達に言われて私は得意だった。しかし眠くなっても目が疲れてもやめさせてもらえない毎晩の拷問によって、小学5年生のたった一年で、私の視力は0.1以下となった。だんだん物が見えなくなってくる恐怖と哀しみを私は覚えているが、どこかで諦観もしていた。もうどうなってもいい、という気持ちがあった。しかし自慢のよく見えた大きな目に、分厚くて重いレンズの眼鏡をかけねばならなくなった時、私は泣いた。洗面所で泣いて泣いて泣いた。どうにか視力がまた元に戻らないかと、泣きながらアホみたいに野菜の汁をしぼって目の中に入れたりしていた。私は元来、走り回ったりするのが好きな活発な子だった。しかし眼鏡をかけてから、その活発さは失われたと思う。暗くて、おとなしくて、真面目に見えるその眼鏡姿の自分は受け入れがたいものだった。母親は「視力なんて別にどうなったっていいんだよぉ!眼鏡かけりゃあいいんだよぉ!」と言っていた。子供が持って生まれたそのかけがえのない宝物を奪ってしまったことについて何の反省も後悔もなかった。「そんなに視力が気になるなら星でも見て来い!」と冬の夜のベランダに出された。私は寒さに震えながら星を見た。それは束の間の癒しの時間だったかもしれない。でも以前はくっきりときれいに見えた星が、ぼんやりとしたただの淡い光になってしまったことが悲しかった。ベランダの手すりに腰をかけて、「このままベランダから落ちたら楽になれるのかな」と私は思っていた。

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学校にいると「みんなの前で吐いてしまうのではないか」という強迫観念にもかられていた。「どうしようどうしよう」と授業中もずっと不安に苛まれていた。先生に「吐きそうです」と訴えたら、「保健室に行けばいいでしょう」と面倒くさそうに言われた。私は「吐いてしまうから学校に行けない」と家の玄関口で泣いた。母親は「あんた学校でいじめられてんの!?いじめられてるなんて恥かかせないでよ!」と言った。学校でいじめられなんかいない。いじめているのはあなたでしょう?なぜ娘のこの異常事態を認識できないのか。そしてその原因が自分にあると微塵も思えないのか。これについても「嘔吐恐怖症」というストレス性の精神疾患であったことを、大人になってから知った。

 

左の脇腹に水疱ができた。右手の指で触ると、ぶつぶつがたくさんあって気持ち悪かった。そしてそれらはみるみる広がり、黄色の汁を出してぐちゅぐちゅになった。痛みと痒みでどうしようもなくなった。病院で「帯状疱疹」と診断された。ストレスによって免疫力が低下して発症するもので、子供がなることは珍しいそうだ。私は上半身に包帯をぐるぐる巻きながら学校や塾に行っていた。痛みや痒みはとても不快だったと記憶しているが、それもあまり周囲には見せていなかったかもしれない。この不快感すらも自分の中に押し込んで我慢していた。私は一人で何もかも我慢していた。あらゆる感情を内側に抑圧していた。

 

私が大人になってから母親にあの頃のことを言うと、彼女は「本当にあの中学受験に自分は狂わされた!」と怒っていた。なぜ被害者ぶるのか。自ら狂いに行ったんだろう?感情も行動も制御できない低能のあなたは加害者。被害者は娘だ。なぜ小さな子供ですら感情も行動も制御できているのに、50代にもなるいい大人であったあなたは微塵も制御できなかったのか。

 

父親に言うと、「お母さんが躍起になっているから困ったなとは思っていた」と言っていた。思っただけで、問題解決のために何ひとつ行動を起こさなかった怠け者。私が深夜2時まで怒鳴られ叩かれている部屋のその真上の書斎で、彼はいびきをかいて寝ていた。なぜ自分の子供の苦しみにたったの1ミリも寄り添えないのか。私はあの拷問部屋のドアを誰かが開けてくれることを、そして私を救い出してくれることを望んでいた。私はドアをよく見つめていたが、誰かがあのドアを開けてくれることはなかった。父親は自分の妻に「今、あの子勉強さぼっているよ」などとわざわざ告げ口をし、妻のイライラの矛先が自分自身に向かないような手を使う卑怯者でもある。「徳」だの「仁」だのと偉そうに人前で講義する立場の人間がこうなのだから茶番もいいところだ。

 

最近「教育虐待」という言葉が出てきた。あの日々はそれ以外の何物でもない。

 

秋葉原無差別殺傷事件の犯人も、農水省の父親に殺された引きこもりの人も、異常な教育虐待を受けていた。殺人事件を起こすのも、引きこもりになるのも、精神疾患になるのも、根っこにあるのは共通している。親からの虐待による悲しみや怒りが脳に心に大量に積もっている。私は悲しみや怒りの刃を自分に向けたので、大人になってから鬱病になって倒れた。刃の向かう先が違っていたら、私が彼らだったかもしれないと思う時がある。

教育虐待 中学受験で私は死んだ1

小4から始まった私の中学受験で、母親はますます狂人と化した。あれはギャンブル中毒と同じだった。彼女は元来、勝ち負けに異様にこだわる。株にのめり込んで、朝から晩まで家事も子育ても何もかも放棄し、新聞とニュースにばかり食い入り、貯金をどんどんつぎ込んで、数百万を失った時期もある。

 

私の通っていた小学校は文教地区にあり、クラスの多くの子供が中学受験をした。毎週日曜に行われる四谷大塚の全国模試には、皆で駅に集合し20名くらいの団体でぞろぞろと連れ立って行っていた。

 

大人になってから彼らと中学受験の頃のことを話すと、皆「楽しかった」と言う。「お母さんが自分をサポートしてくれるのが心地よかった」「母と子で協力し合っているかんじが嬉しかった」「勉強だけしていれば良かったから楽だった」など。

 

トラウマになっていたのは皆の中で私だけだったので愕然とした。私はあの時に「自分は一度死んだ」と思っている。

 

全国模試の結果は毎週水曜日に封書で送られてくる。その度に私は母親に「あの子は国語で全国10位になったのに、なんであんたは!」と怒鳴られ叩かれた。「あの子は理科でこんないい点を取ったのに、なんであんたは!」と怒鳴られ蹴られた。「あの子は算数がこんなに得意なのに、なんであんたは!」と怒鳴られ物を投げつけられた。

 

あの頃は特に、彼女は終始イライラしていた。暴力をふるい、ヒステリックにわめきちらし、扉を爆音を立てながら閉め、子供を威嚇していた。私は怯えていた。常に緊張の糸が張りつめていた。そして、私は毎日とても疲れていた。

 

私は決して勉強ができない子供ではなかった。しかし後に、御三家と呼ばれる中学や国立付属中学に合格し、さらには大学も東大や早慶に進むようなクラスメイトたちとは、やはりタイプは違ったと思う。

 

彼ら、彼女たちの母親もまた、国立大学や早慶を出ている人ばかりだった。私の母親は経済的な理由ではなく、「勉強ができないから」「勉強が好きでないから」「もう勉強したくないから」という理由で大学に行かなかった。そんな馬鹿で怠惰な人間が、勉強の仕方を知っているわけがない。ひたすら時間とお金をつぎ込み、子供の心身がぼろぼろになるまで怒鳴って叩いて蹴っていれば、それでいい結果が得られるわけはないのだが、そのような理屈すらわからないほど、彼女は馬鹿で怠惰だった。

 

株の時と同じく、私の母親は中学受験でも金を次々とつぎこんだ。ひとから聞いた「効く」と言われるものは全部買い、全部やらせようとした。分厚い参考書やドリルを大量に買い、四谷大塚以外の塾にも二つ通わせ、家庭教師を雇い、通信教育までやらせた。毎晩深夜2時まで、私は客間の机の前に正座し勉強させられた。母親は鬼のような形相で私の真横に張り付いていた。クラスメイトの優秀なお母さん方のように勉強を教えるつもりだったのだろうが、馬鹿な彼女はテキストを読んでも内容は理解できず、何かを説明しようとしてもできず、それによってさらにイライラを募らせ、ただただ怒声を上げるばかりだった。「なんでわかんないの!」「どうして覚えてないの!」と私に怒鳴って、叩き、物を投げつけた。引っ掻かれて、まぶたから血が出たこともある。

 

あの時の私は泣いていただろうか。泣いていたかもしれないが、泣きわめいてはいなかった。かわいそうに、私は小さな細い体の中に、はち切れそうに膨らんだ感情をぎゅうぎゅうに押し込めていた。

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「やめちまえ!受験なんてやめちまえ!」と参考書や文房具を庭に投げ捨てられたこともあった。泥だらけになったそれらを、私は泣きながら拾った。試験日に風邪をひかないようにと冬なのに上半身裸になって庭に出されて乾布摩擦をさせられた。小学校の高学年の女の子にさせるものだろうか。模試の日の朝にはとげぬき地蔵のお札を無理矢理飲まされた。水といっしょに飲みこんだお札が喉にからんで、呼吸ができなくなったこともある。

 

大人になった私は勉強の仕方をある程度知っている。大学受験を経て、仕事でも勉強する機会がたくさんあるのでわかる。勉強というのは闇雲に時間やお金をかければいいものではない。また、追い詰めれば追い詰めるほど成果が出るものでもない。馬鹿はその加減がわからない。馬鹿は勉強に限らず加減というものができない。何もしないか、極端に走るかしかできない。その間で加減ができないのが、毒親という名の馬鹿だ。(2へ続く)

子供なんて死んでもいい 食事を用意しない毒親

食事をまともに用意してくれない母親だった。食べることは生きること。子供なんて死んでもいいと思っていたのかもしれない。

 

小学生の時、私は朝、何も食べずに出かけていた。彼女は朝食を出さないくせに、家を出ようとする私の背中に「何も食べないと貧血になってみんなの前で倒れるよ!」「何も食べないとみんなに口が臭いって言われるよ!」などの脅しや嫌味の言葉だけは存分に浴びせかけた。

 

私は給食をできるだけたくさん食べた。何度もおかわりした。「痩せの大食いだね」とクラスメイトに言われたが、そうせざるをえなかった。家に帰ってもおやつなんて出されたことはないし、夕飯だっていつ食べられるかもわからなかったからだ。

 

彼女が毎日、食事もまともに用意せずに家で何をしていたかというと、リビングにあるテレビの真ん前に寝転がって、又は立膝をして座り込んで、げらげらと下品に馬鹿笑いしながら、音をたてて緑茶をすすり、お菓子をぼろぼろと床にこぼしながら食べ、ずっとテレビを観ていた。合間に二度も三度も昼寝をし、放屁して、ゲップをして、大声を上げながらあくびやくしゃみをして、舌打ちをして、鼻をほじり、尻を搔きながら。物心がついてから私が見てきた彼女の姿は、ずっと変わらない。「母親の姿を思い出して」と聞かれたら、テレビの前でそんなふうにだらしなく過ごす彼女の後ろ姿を思い出すだろう。そのくせ、「あーあ!今日も一日テレビばかり観て無駄に過ごした!」などとイライラしていた。

 

私が彼女に「ご飯を作ってほしい」と言うと、「なんであたしが作んなきゃいけないのよ!面倒くさい!あたしは不幸だ!あたしには自由がない!」と怒鳴った。

 

彼女はしばしば、私の体を見ては、馬鹿にし嘲笑した。「あんた、骨と皮だね。まるで餓鬼だね!」「エチオピアの栄養失調の子どもみたい!」「手足が細長すぎて骸骨が歩いてるかと思った!」「まるで病人だね。気持ち悪い!」など。ならばなぜ、親として食事をちゃんとしてあげようと思わなかったんだろうか。娘が痩せているのは自分の責任だと微塵も感じなかったんだろうか。胸を痛めることも、自己嫌悪も、何もなかったんだろうか。

 

 

私は片道1時間半ほどの私立の中高一貫進学校に通っていた。勉強もたくさんして、部活もして、さらに満員電車に詰め込まれて心身がへとへとになった状態で夜の7時近くに帰宅しても、夕飯がちゃんと用意されていることなどほとんどなかった。

 

私は仕方なく自分で作った。しかし作ろうと思うと、台所の流しは大量の汚れた食器で埋まっていた。まずはそれらを片付けなければならなかった。しかし洗おうとすると、流しは一気に汚水で満たされた。排水口のごみ受けにごみが溜まっているからだ。生ごみだけでなく、ビニール袋や鼻をかんだティッシュも捨てられていた。

 

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棚から鍋を取り出そうとすると、その鍋は洗われておらず、汚れとかびがこびりついていた。冷蔵庫を開けると、腐ってどろどろになった人参や、乾いて黄色くなった豚肉、袋から飛び出て庫内に散らばった餃子、悪臭を発する数週間前のおかずなどが出てきた。食事を作る前に、まずそれらを選別することに手間と時間をかけねばならなかった。ケチャップやマヨネーズなどの調味料の瓶は、同じものが何本も開いていて、どれから先に使うべきか、はたまたそれらがいたんでないかも確認しなければならなかった。疲労感は増し、空腹も辛く、みじめな気持ちになった。

 

やっと夕飯を食べられるのは9時や10時だった。

 

私は彼女に提案をした。「学校から帰宅した7時くらいには、夕飯を食べられるようにしてほしい」と。夕飯の食器の片付けをして、お風呂の掃除をして、家族全員分の洗濯物をたたんで、アイロンもかけて、そして宿題もするとなると、私の就寝時間は毎日深夜の2時や3時、4時近くになることもあった。翌朝7時には、私は家を出なければならないのに。

 

彼女は「夕飯の時間なんて決められたくない!」と反発する。さらに「うちの娘は“7時0分0秒きっかりに食事を出せ!”って言うのよ。こだわりが強いの。自閉症気味なの。精神の病気よ。本当に気難しくて大変よ」と周囲に吹聴した。いわゆるエリートの夫の、自分は内助の功だと堂々とうそぶく彼女の言葉を、人々は果たして信じてしまうのだろうか。

 

 

小学生の時も、中高生の時も、私は友人たちに「母親が食事を用意してくれない」と相談をした。友人たちは皆、ごく普通の、どちらかといえば裕福で意識の高い家庭の子供たちだったので、私の話に一様にきょとんとしていた。そして「どうしてお父さんは何も言わないの?」と、とても常識的な疑問を投げかけた。

 

父親は自分の書斎にこもって文献を読みながら菓子でもつまんで空腹をしのければ、それで済む人間だった。成長期で、食べ盛りで、栄養をたくさん摂らなければならない子供のことを、わざわざ思いやるような心ある人間ではなかった。

 

このようなぞんざいな扱いを受け続けた子供が、自分の存在を、命を、肯定して生きていくことなどできるだろうか。成人したからといって、どこからともなく急に自分に自信が湧いて出てくることなんて無いはずだ。

 

 

私が大人になってから、教師をしている方に「今時は、お母さんが働いているために夕飯を作れず、食卓に1000円だけが置かれているというような子どもも多いんですよ」と言われたことがあった。その方は「可哀そうですね」というリアクションを期待なさっていたかもしれないが、私は「羨ましいな」と思っていた。

 

少なくとも、そのお母さん方は、子どもたちが食事をとることについての考えが及んでいる。子どもに夕飯を食べてほしい、夕飯が食べれなかったらかわいそう、と思っている。つまり子どもに、死んでほしくない、生きてほしい、と思ってくれているからだ。

「毒親」「親ガチャ」と言うほかない実態がある

毒親」とか「親ガチャ」という言葉に目くじらを立てる人たちがいるが、彼らは新聞を読んだりニュースを見たりしない人たちなのだろうか。親による子供の虐待の報道があれほどなされているのに。それとも、そういうのを読んだり見たりしても、心を動かされることも、何か深い思考をするようなこともできない人たちなんだろうか。

 

私の毒親である両親のこんなエピソードを読んでも、目くじら人たちはまだ「親」と呼ばれる人たちのほうが正しいと思うんだろうか。以下は二千三千、おそらくもっとある、彼らの醜く愚かしいエピソードの中のひとつです。

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東日本大震災の日、東京郊外の私の町でも残念ながら1名の方が亡くなられた。ちょうど訪れていらした都心の会館の天井崩落によるものだった。夜にはその方のお名前が、住まいである私の町の名前とともに報道されたようだ。

 

翌日、朝から私の母親が町内会名簿や町内の地図、電話帳など沢山の紙類をリビングに広げて熱心に何かをしていた。その姿は、ピクニックに行って色とりどりのレジャーシートを並べ、その上で興奮する子供のようだった。私はそれを横目にしつつも、停電がいつ起こるともしれない中でパソコンを使って仕事をせねばならず、彼女に「何をしているのか」と聞く余裕などなかった。

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夜になり、彼女が地図を手に掲げながら、喜びにあふれた声で「わかった!死んだ人、ここに住んでるんだ!この住所の、地図のここ!公園の近く!ここに住んでる人が死んだんだ!」と叫んだ。

 

私は愕然とした。震災の翌日に、片付けや余震への対策をするでもなく、知人や親族の安否確認をするでもなく、彼女が一日中没頭していたことは、ただの興味本位で、亡くなった方の名前から名簿や電話帳を使ってご自宅の住所を割り出し、その位置を地図上で特定することだった。私は言った。「そんなことする必要ある?不謹慎だよ」と。

 

「別にいいでしょ!あたしの勝手でしょ!あたしの自由!」と彼女は怒鳴った。私はすぐそばにいた父親に言った。「お父さんからも何か言ったらどう?」と。すると彼は菓子を頬張り、にやにやしながら、「研究熱心でいいんじゃないの?」と言った。夫に擁護された彼女はさらに怒鳴り声を上げた。「そうだそうだ!あんたはいちいちうるさい!キチガイが!精神病院行け!」と。

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これが私の両親である。勲章だか何だか知らないが自費でやたらと立派に額装したものを仰々しく壁に飾り、床は食べかすと埃にまみれたリビングで、性根の腐っただらしない夫婦がこのような醜く愚かな言動をしながら何十年も暮らしてきた。

 

目くじら人の感性では、彼らをどう捉えるだろう。そういった両親に育てられた子供たちが、彼らよりずっとまともであったがゆえに、幼い頃から幾度となく絶望を味わい、それによって大人になっても尚、心を病まずにはいられないことなど、その浅い思考では想像も理解もできないかもしれない。「毒親」とか「親ガチャ」と嘆くほかない子供たちに対して、まだ「わがまま」だとか「甘えてる」だとか「言い訳するな」だとか「もっと不幸な子供は世界中にいる」だとか言うんだろうか。

 

私は自分の両親を、モラルの無い、心を失った、愚かで不誠実な者たちだと捉える。そしてそれは辛く長い葛藤の末に、やっと捉えることができた真理だ。

乳がん治療の記録【56】術後一年後検診とお茶会

病院へ術後一年後検診に行きました。超音波とマンモグラフィでの検査でしたが、問題はなく「ほっ」としました。

そして、また別の日に、病院で同室だったKさんやUさんとも再会し、お茶をしました。みな同じ40代で、なんだか雰囲気も少し似ている気がします。

入院中はほぼ同じスケジュールやメニューをこなしていたけれど、改めてお話しし合ってみると、それぞれ辛かったことや痛かったことなどがまったく異なるのが興味深いです。

Kさんは「カテーテルがすごーくストレスだった」とおっしゃりましたが、Uさんも私もそんなには感じませんでした。

Uさんは「着圧ソックスが気になって仕方がなかった」とおっしゃりましたが、Kさんも私も履かされていたことすらあまりおぼえていませんでした。

私は術後の麻酔の副反応がトラウマになったと言いましたが、お二人はそこまで副反応はなく、かと思えば、お二人が激痛に感じた注射では、私は何の痛みも感じませんでした。

しかし共通しているのは、手術直後の夜がとてもとても長く感じたこと。寝返りも打てず、体のあちこちが凝って痛くなる中、まんじりともせず過ごす15~18時間は本当に苦しかったということです。これは乳がんの手術に限らず、大きめの手術だったら全て術後はそのように絶対安静にならざるをえないので、「今後はなるべく手術しないですむように生きたい・・・」という結論になりました。

三人とも同じような人生の悩みを抱えたりもしていて、だからなるべくストレスはためこまないよう、体を適度に動かしたり思いを吐き出したりして上手に発散していきたいですね、なんてことをお話し合ったりして私はとても励まされました。

なんだか学生のころから知り合いだったような気がする不思議な縁です。

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おいしいコーヒー

乳がん治療の記録【55】おまけの医療用ボンドかぶれ

退院してから1ヶ月後、傷口がむずむずとかゆくなってきました。鏡で見ると少しかぶれています。傷口は医療用ボンドで貼られているのですが、このボンドは毎日お風呂に入っていてもなかなか取れず、傷口のまわりにはぼそぼそと残り続けています。かぶれはこのぼそぼそに沿ってできているようです。

医療用ボンドかぶれ??

数日後には絶望的なかゆみとかぶれになってきたので、近所の皮フ科へ行きました。

先生の見立ても医療用ボンドかぶれではないかとのことでした。残っているボンドからの刺激が積もり積もって、急にかゆみとかぶれが出現、という流れなのだそうです。

強めのステロイドを処方していただき、2週間くらいでやっと治りました。

医療用ボンドでかぶれる人はいないわけではないけれど、とてもめずらしいとのこと。手術の一ヶ月後くらいからなることが多いようです。

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かぶれにはステロイド


一難去ってまた一難の稀少例でした。
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以上で、「乳がん治療の記録」を終えます。読んでいただきました方々、ありがとうございました。

 

今後は、正しいことがひとつもなかった家庭のことや、そういう家庭で育つ子どもの気持ち、その子どもが大人になってからの苦しさなどを、ぽつりぽつりとつづっていきたいと思います。