教育虐待 中学受験で私は死んだ1
小4から始まった私の中学受験で、母親はますます狂人と化した。あれはギャンブル中毒と同じだった。彼女は元来、勝ち負けに異様にこだわる。株にのめり込んで、朝から晩まで家事も子育ても何もかも放棄し、新聞とニュースにばかり食い入り、貯金をどんどんつぎ込んで、数百万を失った時期もある。
私の通っていた小学校は文教地区にあり、クラスの多くの子供が中学受験をした。毎週日曜に行われる四谷大塚の全国模試には、皆で駅に集合し20名くらいの団体でぞろぞろと連れ立って行っていた。
大人になってから彼らと中学受験の頃のことを話すと、皆「楽しかった」と言う。「お母さんが自分をサポートしてくれるのが心地よかった」「母と子で協力し合っているかんじが嬉しかった」「勉強だけしていれば良かったから楽だった」など。
トラウマになっていたのは皆の中で私だけだったので愕然とした。私はあの時に「自分は一度死んだ」と思っている。
全国模試の結果は毎週水曜日に封書で送られてくる。その度に私は母親に「あの子は国語で全国10位になったのに、なんであんたは!」と怒鳴られ叩かれた。「あの子は理科でこんないい点を取ったのに、なんであんたは!」と怒鳴られ蹴られた。「あの子は算数がこんなに得意なのに、なんであんたは!」と怒鳴られ物を投げつけられた。
あの頃は特に、彼女は終始イライラしていた。暴力をふるい、ヒステリックにわめきちらし、扉を爆音を立てながら閉め、子供を威嚇していた。私は怯えていた。常に緊張の糸が張りつめていた。そして、私は毎日とても疲れていた。
私は決して勉強ができない子供ではなかった。しかし後に、御三家と呼ばれる中学や国立付属中学に合格し、さらには大学も東大や早慶に進むようなクラスメイトたちとは、やはりタイプは違ったと思う。
彼ら、彼女たちの母親もまた、国立大学や早慶を出ている人ばかりだった。私の母親は経済的な理由ではなく、「勉強ができないから」「勉強が好きでないから」「もう勉強したくないから」という理由で大学に行かなかった。そんな馬鹿で怠惰な人間が、勉強の仕方を知っているわけがない。ひたすら時間とお金をつぎ込み、子供の心身がぼろぼろになるまで怒鳴って叩いて蹴っていれば、それでいい結果が得られるわけはないのだが、そのような理屈すらわからないほど、彼女は馬鹿で怠惰だった。
株の時と同じく、私の母親は中学受験でも金を次々とつぎこんだ。ひとから聞いた「効く」と言われるものは全部買い、全部やらせようとした。分厚い参考書やドリルを大量に買い、四谷大塚以外の塾にも二つ通わせ、家庭教師を雇い、通信教育までやらせた。毎晩深夜2時まで、私は客間の机の前に正座し勉強させられた。母親は鬼のような形相で私の真横に張り付いていた。クラスメイトの優秀なお母さん方のように勉強を教えるつもりだったのだろうが、馬鹿な彼女はテキストを読んでも内容は理解できず、何かを説明しようとしてもできず、それによってさらにイライラを募らせ、ただただ怒声を上げるばかりだった。「なんでわかんないの!」「どうして覚えてないの!」と私に怒鳴って、叩き、物を投げつけた。引っ掻かれて、まぶたから血が出たこともある。
あの時の私は泣いていただろうか。泣いていたかもしれないが、泣きわめいてはいなかった。かわいそうに、私は小さな細い体の中に、はち切れそうに膨らんだ感情をぎゅうぎゅうに押し込めていた。
「やめちまえ!受験なんてやめちまえ!」と参考書や文房具を庭に投げ捨てられたこともあった。泥だらけになったそれらを、私は泣きながら拾った。試験日に風邪をひかないようにと冬なのに上半身裸になって庭に出されて乾布摩擦をさせられた。小学校の高学年の女の子にさせるものだろうか。模試の日の朝にはとげぬき地蔵のお札を無理矢理飲まされた。水といっしょに飲みこんだお札が喉にからんで、呼吸ができなくなったこともある。
大人になった私は勉強の仕方をある程度知っている。大学受験を経て、仕事でも勉強する機会がたくさんあるのでわかる。勉強というのは闇雲に時間やお金をかければいいものではない。また、追い詰めれば追い詰めるほど成果が出るものでもない。馬鹿はその加減がわからない。馬鹿は勉強に限らず加減というものができない。何もしないか、極端に走るかしかできない。その間で加減ができないのが、毒親という名の馬鹿だ。(2へ続く)